モノを作るということの大切さと楽しさを初めて実感したのはいつのことだったかはわからないけれど、その実感はますます強くなっていくばかりです。それは実感するという瞬間が点としてあるのではなくて、いくつもの層になって自分のなかに蓄積されて拡大していくようです。
そしてそれは文字通りの「手作り」とか製造することに限ったことじゃなく、生きて行く上で「すべてのこと」にあてはまることなんじゃないかと思うようになりました。ひとはみんなアーティストであって、創造することで学び、学ぶことで創造するもの‥。そしてそれはいつも辛いことやきついことではなくて、そこに愛(情)があればどんどん学べるし、可能性もどんどん広がるのだと思います。
作るというアイデアは、しなやかです。
ところでいま、しなやかという言葉を変換しようとしたら、漢字が出てきませんでした。この日本語の響きとひらがなの言葉はとても美しいなと思いました。漢字があるのかもしれませんが、「しなしな」という音がいかにも和風。もし自分に女の子が生まれたら、「しな」って名前にしようかなと一瞬思ったくらいです。同じ「しな」でも支那とは違う語源であるとなぜか確信できます。そんな、インドから来た当て字のような音ではない、根本的な音。
しなやかさは、生きる力です。
作ることができればそれは自立です。与えてもらうのを待つこともありません。探すこともしなくてよいのです。
作ることができれば、自分に何が必要かわかるし、オリジナルでいられます。何かがなくなっても、また作ればいい。それができることは余裕で、不足がありません。その「レシピ」は自分だけのもの。それがいわゆる掛け替えのないもので、教えてもらったものであろうと、自分で生み出したものであろうと、作ることができるのは減ることのない「宝」です。
レアアースが手に入らなくなっても同じものを作れる技術は、レアアースよりも貴重で有用です。レアアースの入手先を新しく「作る」ことも、レアアースよりも価値があります。そしてそれがひとつの学びとして、あらゆる方向に可能性を広げることになります。
水紋。可能性が広がるのは、水面にひとつのしずくが落ちるその様子のようで、「作る」ということが観念的にその描写にしっくりくるのは、「過程」が表れているからかもしれません。
人間は楽をしたい生き物なので、ものを作るとなると、自ずと工夫をするようになります。こんなところに、怠け者であるが故の進化という背中合わせの事実があるように思います。その進化ははたして進化なのかという議論はさておいて、言えるのは、工夫がなければものは作れないし、考える、求める、思い描く、迷う、試す、順序立てる、信じる、そういうことが、生きることそのものだと思うのです。
中学のときにお世話になった担任の先生の言葉。「消費するのではなく、作る側の人間になれ」。雑巾を、消費する人間にはなるなと言いました。
農家の出身で、「お前たちの歳の頃、畑仕事をしたあとに親父ととぼとぼと帰途につく道すがら、見える真っ赤な夕日が大きかった」とか、そんな気障なことを30数人の12、13才のガキどもに向かって宣うカリスマのある先生でした。先の言葉は、何を意図してらしたのか、バブルがはじけた直後の、ひととしての態度における戒めの言葉だったのか、あるいは役に立つ人間になれという意味だったのか。どちらにしてもどうであるにしても、あのときの言葉が、20年経った今も少なくとも教え子のひとりにとって座右の銘たる光を放っていることは、ひとつの大きなしずくをある水面に落とした師であることには間違いありません。
ご飯を作る。歌を作る。友達を作る。お金を作る。服を作る。価値を作る。作ることが次の「作る」につながって、自分にしか作れないものができたとしたら、それだけで対向車線も標識もない、誰にも干渉されない道ができあがります。それが、自由。もらったり奪ったり買った自由は消費するだけだけれど、作る自由は拡大拡散するだけで、奪われてもそこにはいつでも芽を出すことができる種が残されているのです。そして、作るというその経験が、モノの価値を見極める眼を育てることにもつながるということもわかります。
作ることは気づき。作ることは愛と工夫。作ることは前を見ること。
これから、どんなものを作って行くのか。どんなものでもいいから、消費するよりは作る側でいたい。そんな想いをこれからも持ち続けて行きたいと思う今日この頃です。